ゲームの自由度、反ナラティヴ

ゲームにおいて、プレイヤーの些細な行動や選択が最後まで影響する、NPCを殺したり非道な選択をしたら悪ルートに進めるような事が「自由」と称される事がある。自分にとってはそういった行動が結果に影響せず、興味のある選択肢を全て選んでみた後ペナルティなしで正規ルートに進める事が「自由」だ。いちいち結果が伴い取り返しがつかないと思うとストレスしかない。

自分にとってのゲームの自由

コマンド選択中に時間が進まずいくらでも考えられる、いつでもセーブしてやり直せる、選択肢を選び直して全ての反応を見られる、何度でも同じ話を聞ける、死んでも生き返る、一度行った場所に一瞬で移動出来る、見下ろし型で背後や壁の向こうが見える、そういった現実では不可能である事。

逆に、選択に時間制限がある、セーブ制限がある、一度しか選べない、話を聞き直せない、死んだらロストする、移動に時間と金がかかる、一人称視点で視界が狭い、等がわざわざ現実の不便を再現したストレス度の高い要素。全て現実で間に合っている。

ナラティヴ、チョイスドリヴン

そういった思考は、昨今評価されるナラティヴと呼ばれるゲームと非常に相性が悪い。主人公にキャラクター性がなく、プレイヤーに選択させ、それが展開に深く影響するタイプだ。自分がやりたい事ではなく、EDにどう影響するかを考えて選択しなければならない。やり直すコストが高すぎる。そこに自分の考える自由、ゲームの楽しさは無い。「何者かになりたい」人向けのシステムだ。

チョイスドリヴンもその名の通り。近年プレイした中で最も感動した場面がGhost of Tsushimaの「鑓川の冥人」だったが、プレイヤーに選択の余地は無く、しかし主人公への共感と驚きと一瞬の逡巡と共にプレイヤーのアクションで後押しする(それまで時は止まっている)という得難い体験であり、自分が求めているのはそちらだと断言出来る。

(主人公の決断の後押しと言えば、バテンカイトスのディスク1の最後にも劇的な展開があり、主人公に対してプレイヤーが反応を選べる。それもシナリオには影響しないが印象的だった)

自我と接待

自我も自尊心も間に合っているので、自分は「何者かになりたくない」。見たいのは強い個性を持った主人公の物語であり、「これは貴方の物語です」という接待を必要としていない。冒頭で性格診断のような質問があるとやめたくなるし、ゲームに自分の名前を入れた事もない。

「何者かになりたい」者以外にとって、誰かのシナリオにどう扱われるかも分からず自分を開示してまで得られる見返りは無い。