道徳の記憶

小中学校の膨大な拘束時間は全く無駄だったと心から思っているが、今ひとつ分からない学校への怨言がある。道徳の授業についてだ。
どうも「道徳の教科書の内容」は学校の嫌な記憶としてかなり多いようで、大勢がごく短い訓話をよく覚えていて「納得いかなかった」と憤っているのを不思議に思った。
道徳の話は何一つ記憶に無い。憤っていないからだろう。それは自分の嫌う身体的な制限、競争が無いからだと思う。

自分の怒りは人権の無い徒歩通学と重荷、戦後の如き机と椅子、乏しい空調、冬も冷水のみの水道、許されない防寒対策、短い休憩時間を奪う移動や準備、身体差に基づく競争、奴隷のような雑巾掃除、そういうものにある。
訓話に対する反応を脳波で読み取り点数を付けられるならまだしも、どう思いますか?の問いに何の強制力も無い。予想される解を書く事に身体拘束ほどの苦痛は無い。自己表現の場ではない事が分かっているからだ。

勿論内容は保守ジジイが繰り出す性差別的な説教であり改めて読むと反吐が出るが、訓話への批判はその話に乗った上でのものが多い。ジジイの創作上の「お母さん」に対して「母親のやり方が悪い」と盛り上がるのはネットの娯楽、女叩きの構図と変わらない。権力者が何を狙ってその話を書いたのか、載せたのかを批判するべきであり、架空の母の育児を叩いて溜飲を下げるのは間違っている。


参考