何も信じない事

占い、宗教、心霊、あらゆる迷信が嫌いだ。
フィクション内の要素としては楽しめるが、現実に持ち込まれると反吐が出る。霊感があると言われると病院に行けとしか思わない。目の前で突然痙攣しながら霊がいるとパフォーマンスを始められ、呆れ果てた事が二度ある。

「自分は魔力が高く精霊が見える。魔力の低い人間には見えないがそこら中にいる。貴方には◯◯の精霊がついている」と語り、「くっ…闇の魔法使いの攻撃を受けている!」と突然震えだす人間は誰も相手にしないが、それが霊感になると人々が神妙な顔をして聞き、本人の社会的な信頼性も落ちない不条理。

霊感話を聞かされて考えるのは霊の実在ではなく「その人の脳にいるか」(裏付け不要の創作実話で承認欲求を満たしているか、それが行き過ぎた結果やPTSDで本当に脳が見せているか)であり、後者で健康被害が生じているなら適切な治療を受けて欲しい。霊感が「強い」という言葉がなお承認を与えているが、常人が感じないものを感じて具合が悪くなるのは一般に言う過敏症であり、体が「弱い」という事だ。彼らの話を面白半分に持て囃してきた周囲の人間にも責任がある。

日本人の心霊観は被害者の悪魔化であり陰湿だ。男に殺されたり自殺に追い込まれた女性が不気味な姿で他人を八つ当たり的に殺すと噂するのが基本形。被害者を心身共に貶め、更には説教して成仏させるまでがフィクションのテンプレ化している。

現実の事件で加害者が死ねば「死んだ人を悪く言うな」と擁護されるが、被害者が「化けて出る」「恨みで人を殺す」と嘯くのは「悪く言う」に含まれないようだ。不謹慎だと止める所を見た事が無い。

迷信の中でも六曜、厄年は迷惑度が高い。人の一日や一年を悪いものだとし、根拠は全く無いか駄洒落。宗教にすら関係無いのに駄洒落の対策で宗教施設に金を払う。自分自身の事なら勝手にやればいいが、他人の年齢まで厄年だと揶揄するのが定番のコミュニケーションとなっている。

占いは特にジェンダーの影響が強い。社会的に無力な性別に生まれ虐げられ、運命や超自然を信じるしかない痛ましさ。自尊心が低く、赤の他人にお前の今日は、今年は、人生はこうだと断定される事に反発ではなく喜びを感じ、金まで払う。血液型、星座、生年月日、ネタが尽きたら肌の色味、骨格など次々と「自分で選べないもの」によってカテゴライズされ断定される事を求める。
無力感からのオカルトについては2019年のトランプに対抗する為に魔女達が立ち上がったという記事でその痛々しさを感じた。

宗教は昔の男の妄想であり、どれも夥しい性差別の温床だ。それを批判せず「古いものだからそういう所もある」と見逃し、また現代でも堂々と差別を断行する信仰を認める道理が無い。

日本人は「宗教に寛容」なのではなく、強く信じる事も信じない事も等しく冷笑する。宗教が絡む行事を拒否する事は社会性が無いと見做される。政治と同じく「意思が無い事」が社会性だ。とは言え信仰が当然である国よりは無宗教が生きやすい。

人を信じる話はフィクションでは美しいが、現実でよく目にするのは自分の属する集団の人間、好ましい人間が問題を起こした時に「信じる」(よく知らない被害者の事を疑う)という暴力的な表明だ。

自分の思考は好きだし信じているとも言えるが、脳は些細なダメージで人格が変わる、加齢で頭がおかしくなる脆弱性があるので今しか信じられない。他人は言うまでもない。

誰も何も信じないというと大袈裟にとられるが、中世でもないしフィクションでもないのだから何かを信じなくても生きていける。

何も信じないという事は、その都度考えるという事だ。考えても結局の所分からない事は多い。社会が二分化された時は極論が溢れる。そういった時に不明を希望で埋めない。後に自分の考えが間違っていたと分かる事もある。
それがダルいしキツいから人は信じる。常に考える事、不明を抱える事、責任を負う事。そのように生きる事が信じないという事だ。